代表的な見え方の変化

2011.03.12

・目の調整能力が低下したことによる近距離視力の低下(いわゆる老眼)・人の顔がぼんやりとかすんで見える、老眼鏡をかけてもハッキリと見えないという初期症状から始まる老人性白内障。カメラのレンズにあたる水晶体が濁り、黄色くなることによって、見え方が変化する。早い人で40代から始まり、80代になると多くの人に見られる症状・まぶしさ感の増加(これも、白内障からくることが多い)といった加齢による症状の変化に対応したほうがイイ。よく「主人が部屋を明るくしすぎてガマンができない」と嘆く主婦の声を耳にする。男性は明るさを求めて青白い蛍光灯を使っているのだが、女性はむしろ青白い光を不快に感じているというケースだ。このような場合は、天井についている蛍光灯の光を青白い昼光色や昼白色からオレンジ色の電球色に取り替えるだけで解決できる。明るさは変えなくても、「まぶしくなくて、見やすいわぁあ」と、奥様の顔もご機嫌になるはずだ。加齢によって水晶体が黄色くなると、目に一種のかすみがかかったような状態になる。こうなると、青白い光よりも、波長の長い赤みのある光のほうが光を通しやすい、つまり見やすい状態になる。さらにまぶしさ感も減少できる。明るさはあるのに、ご夫婦ともに快適に感じられる環境をカンタンに作れるのだ。それぞれの目の状態やそこで何をしたいかに合わせて柔軟に照明を工夫する。それが、家庭円満の秘訣にもつながる。ぜひ、トライしてみてほしい。千利休が活用した 人の印象を変える「プルキンエ現象」 秀吉の自慢の種・千利休戦国時代に、光の作法に卓越していた人物がいる。千利休(1522〜1591年)だ。安土桃山時代に、極限まで無駄を省くというわび茶を完成した人物。12歳下の織田信長と14歳下の豊臣秀吉に仕えた天下一の茶の湯の宗匠として知られている。1522年(大永2年)、堺の今市町に誕生。19歳のときに茶の湯の形式と内実を整えた武野紹鴎の門をたたいた。信長に仕えていたときには既に50歳を越えていながら、まだ茶頭のナンバースリー程度。上には、今井宗久や津田宗及がいた。ところが、信長配下の武将にすぎなかった秀吉が、信長の死後、専制君主になった。秀吉は政治面において信長路線を引き継ぐだけでなく、茶の湯のうえでも信長が愛した茶器を手に入れ、利休を引き続き茶頭として召し抱えたのだ。利休との仲は年々親密になっていき、大坂城で次々と行われる茶会には、常に利休の姿が見られたという。秀吉は、利休が自慢の種だった。大切な客人が来ると黄金の茶室に案内し、豪華な道具を見せ、そして必ずといっていいほど、利休に茶をたてさせていたようだ。ビジネス的にいえば、秀吉と利休は素晴らしい連携プレーで仕事をしていたといえる。客人の接待のような外交関係だけでなく、大名間の軋轢などがあれば、利休が間に入ってうまく収める役割を果たした。大名同士を茶室に呼んで会わせ、仲をとり持った。利休はこういった調停役として頼りになったので、重く用いられたのだ。